これは、北極圏を代表する花です
この花も、北極圏を代表する植物です。
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みんな違ってみんないい
生き物は、同じ種であっても、ひとつひとつ少しづつ違っている。たとえば私たち人間をとっても、一人一人、顔つきも違えば体格も違うし、性格も違う。だからこそ私たちは、一人一人を区別し認識する。背の高い人、低い人。色の白い人、黒い人。顔の長い人、丸い人。目の大きな人、小さな人。のんびりした人、せっかちな人。人間社会は、そんなさまざまな人からできている。だからこそ私たちは人を識別してつき合っている。まさに“みんな違って、みんないい“ のである。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
(金子みすゞ)
こうして、一人一人が微妙に違っていることは、人間だけでなく、すべての生き物についていえることである。犬でも猫でも一匹一匹みんな模様や癖が違う。また動物ほど目立たないが、植物でもひとつひとつ違っている。たとえば道端に咲いているタンポポの花や葉も、決してハンコで押したように、すべて同じではない。だが、こうして一つ一つ違っていることが、生物にとってはたいへん大事なことなのである。生き物の一つ一つが少しづつ違っていることを変異というが、変異こそ生き物が地球の歴史の中で今日まで生き残り、繁栄してきたことの基本的な条件である。
地球の環境は一定不変ではない。むしろ激しく変動する。暑い年があったり、寒い年があったり、雨の多い年があったり少ない年があったり、また場所によって日当たりのよいところ悪いところ、また湿ったところや乾いている所など、多様に変化する。しかもそれらの条件は常に変わっていく。生き物が生きていくためには、そんな環境の変化変動にうまくついていかねばならない。だからこそ同じ生物(種)でも、さまざまに変異があることで、環境が変わったときその変わった条件に見合った個体が生き残り、種として生き残れるのである。
そんな環境の変化に適応して生き物の変異の幅が十分に大きくなると、それはもはや別の種ともなり、ここで種の分化が起きる。こういうことが地球のいたるところで、また常に起きることで、地球には常に新しい種が現れ、地球の生物相は豊かになってきたのである。一方で環境の変化についていけなくて地球から姿を消す生物もある。絶滅である。こうして地球の生物相は時間とともに変化していく。10億年前は言うに及ばず、10万前の生物の世界も今とは全く違っている。環境の変化とともに、生物もどんどん変わっていくのである。これが地球の進化である。
いま地球に棲んでいる生物の種類数は、私たち人類も含めて700万とも800万とも言われているが、これはまさに過去40億年に及ぶ生命の歴史の結果なのである。
原爆投下
私は、アメリカという国は嫌いではない。というよりむしろ、多民族・多文化国家そして自然が豊かで美しいアメリカは好きな国の一つである。しかしただ一つ、私がアメリカを許せないのは、1945年8月6日、9日、広島、長崎における原爆の投下である。日本は、その数日後の8月15日、終戦を宣告している。世界ではよく原爆投下が終戦を早めたというが、本当は逆なのではないだろうか。おそらく1945年に入って敗色濃くなった日本は、そのころ裏でアメリカをはじめとする連合国と秘かに交渉を始めていて、ポツダム宣言を受諾する方向で調整を進め、終戦の段取りを考えていた。
それを知った米軍幹部の一部は、日本が正式に終戦を宣言したら手遅れになると、原爆投下を急いだのではないだろうか。原子爆弾という、これまで歴史には全くなかった革新的な兵器をなんとか実験的に使ってみたかったのだろう。しかも広島に落とされた原爆はウラン爆弾(リトルマン)であり、長崎に落とされたものはプルトニウム爆弾(ファットマン)と、全く違った様式のもので、それぞれの力をアメリカは試してみたかったのだろう。アメリカ国内の砂漠でのテストは行われていたものの、まだ実戦には使われたことのない新兵器、それも従来の火薬を破壊力とする兵器とは全く違った革命的な核エネルギーによる破壊システム、なんとしてでも実戦的に試してみたかったにちがいない。
第二次世界大戦では、日本だけでなくイタリーやドイツも連合国と戦っていた。しかし1945年4月にイタリーが、次いで5月にはドイツが降伏、そのころ残っているのは日本だけだった。もっとも、仮にイタリアやドイツが降伏していなかったとしても、同じ白人系民族国家への原爆投下はアメリカとしても躊躇したものと思われる。じっさいアメリカ国内には、イタリーやドイツからの移住者も多く、アメリカ人の中には、これらの国に祖先や親類縁者、あるいは知己を持つ人も多くいただろう。ところが日本はアジア系の国である。白人中心国家であるアメリカは、むしろ躊躇することなく日本への原爆投下を決行したのだろう。
言うまでもなく、広島、長崎は人類の歴史上初めて核兵器が実戦的に使用されたところである。日本が終戦を模索していると分かったとき、アメリカの原爆開発担当の軍人たちは慌てたに違いない。このままでは実戦使用の好機を失する。日本が正式に終戦を表明する前に、なんとしてでも使って見たかったのだろう。まさに日本は核兵器実験のモルモットとして使われたのである。その結果、両都市で30万人を超える無辜の一般市民が犠牲になった。この終戦を目前にしての駆け込み核攻撃、これは許せないアメリカの行為と私は考えるのである。
予測不能な気候の変動
このところ、日本ばかりでなく世界的に大規模な気象災害が多発している。中国では、武漢地方一帯で激しい豪雨が発生、大洪水が起きているという。さらに南アジアのインドやバングラディシュでも未曽有の大洪水に見舞われている。また南半球のオーストラリアでは異常な高温乾燥気候のもと森林火災が発生、広大な面積にわたって森林が焼けて、そこに棲むコアラが絶滅に追い込まれそうになっているという。
日本でも、今年(2020年)7月、南九州球磨川流域では想像を絶する大量の雨が降り、その結果、過去に例を見ない規模の洪水が発生し70人近い命が失われたことは記憶に新しい。そのとき氾濫を起こした球磨川流域では、24時間で800ミリメートルを越す雨が降っている。これは平年の7月の降水量の2倍に達する量である。これが24時間で集中的に降るという、信じられないような状況が起こり、経験したことのない大洪水が起きて、家屋、集落、耕地が流され、また各所で山崩れなども起き、社会インフラはズタズタ、大変な大災害が発生した。豪雨の原因は、南からの梅雨前線に伴う線状降水帯が九州南部を通過し、そのときに大量の雨が降ったのである。最近は、愛知県、静岡県一帯で豪雨が発生している。
しかし、このような想定外の気象災害は今後、世界中どこででも発生するものと思われる。その根本原因は気候の温暖化である。私たち人類は、産業革命以後エネルギー源として大量の化石燃料(石炭、石油、天然ガス)を使うようになった。化石燃料を燃焼すると、廃棄物として二酸化炭素が発生する。それが大気中に溜まり、大気中の二酸化炭素濃度が次第に上昇する。じっさい産業革命以前は約280ppmだった二酸化炭素濃度が、21世紀の今日、約400ppmに達している。
大気中に溜まった二酸化炭素には、温室効果といって、大気中の熱の宇宙空間への放散を妨げる性質がある。そのため二酸化炭素の濃度が上昇するにつれて大気中に熱がたまり、
気温が上昇することになる。じっさい過去100年の間に世界の平均気温は0.8℃高くなっている。IPCCという国際機関の予測によると、このまま二酸化炭素の濃度が上昇すると、今世紀の終わりごろまでに、世界の平均気温は0.8~4.0℃の範囲で上昇するだろうとされる。2020年7月、世界一寒いことで有名なシベリアのベルホヤンスクで38℃という信じられない高温が発生した。
気候の温暖化が進むと、ただ単に暑くなるだけではなく、地球規模で大気の流れが不安定となり、世界の気象が荒れ模様になるとされる。じっさい気温が上がると、海面からの水分の蒸発量が増加、それは結果として降水となって戻ってくるため、世界規模で降水量が増加、それによる災害が増えるだろう。そればかりではなく、気象現象の予測が極めて難しくなるだろう。また気温が上昇すれば、南極や北極での氷床や氷山が融け始め、いずれは世界の海水位が20~60㎝の幅で上昇するだろうとも予測されている。さらに高緯度地方では永久凍土が溶解し、地表面が変動して予測のつかない現象が起きるのではないだろう。また温暖化に伴って、今まで軽視されていた、あるいは知られていなかった伝染病が大流行することにもなりかねない。じっさい今大流行している新型コロナウイルス(COVID-19)も、言ってみれば気候温暖化 がもたらした感染症といえるだろう。
このように気候温暖化は、気象災害ばかりではなく、私たちが予想もしなかった想定外のさまざまな災害や社会的危機をもたらすことになるのではないだろうか.
アカバナユウゲショウ
真夏の炎天下、道端の雑草の草むらのなかに、よく見ると小さいけれども可憐な美しい紅色の花がチラホラと咲いている。草丈は20~30センチほどだろうか。茎の先端に直径1センチほど、花弁4枚の可愛い花が咲いている。アカバナユウゲショウである。名の示すとおり、アカバナ科の植物でマツヨイグサやツキミソウなどと同属の花である。アカバナユウゲショウというが、必ずしも夕方から花が開くわけではない。むしろ多くの花は朝から開き、夕方には閉じている。もっとも美しく見られるのは午前10時ごろだろうか。この花は帰化植物といって、もともと外国から来た植物である。明治時代に北米から輸入されたとか言われているが、それが今ではほぼ日本全国に広まって野生化している。真夏を代表する可愛らしい花である。
アラスカの北部にあるブルックス山脈
暴れる地球に翻弄される時代だ
このところ、日本ばかりでなく世界的に大規模な気象災害が多発している。中国では、武漢地方一帯で激しい豪雨が発生、大洪水が起きているという。また南半球のオーストラリアでも高温乾燥の気候のもと森林火災が発生、広大な面積わたって森林が焼けて、そこに棲むコアラが絶滅に追い込まれそうになっているという。日本でも、今年(2020年)7月、南九州で未曽有の雨と、その結果、想像を絶する洪水が発生し70人近い命が失われたことは記憶に新しい。そのとき氾濫を起こした球磨川流域では、24時間で800ミリメートルを越す雨が降っている。これは平年の7月の降水量の2倍に達する量である。これが24時間で集中的に降るという、信じられないような状況が起こり、経験したことのない大洪水が起きて、家屋、集落、耕地が流され、また各所で山崩れなども起き、大災害が発生した。豪雨の原因は、南からの梅雨前線に伴う線状降水帯が九州南部を通過し、そのときに大量の雨が降ったのである。
しかし、このような想定外の気象災害は今後、九州に限らずこれからは世界中どこででも発生するものと思われる。その根本要因は気候の温暖化である。私たち人類は、産業革命以後エネルギー源として大量の化石燃料(石炭、石油、天然ガス)を使うようになった。化石燃料を燃焼すると、廃棄物として二酸化炭素が発生する。それが大気中に溜まり、大気中の二酸化炭素濃度が次第に上昇する。じっさい産業革命以前は約280ppmだった二酸化炭素濃度が、21世紀の今日、約400ppmに達している。
大気中に溜まった二酸化炭素には、温室効果といって、大気中の熱の宇宙空間への放散を妨げる性質がある。そのため二酸化炭素の濃度が上昇するにつれて大気中に熱がたまり、
気温が上昇することになる。じっさい過去100年の間に世界の平均気温は0.8℃高くなっている。IPCCという国際機関の予測によると、このまま二酸化炭素の濃度が上昇すると、今世紀の終わりごろまでに、世界の平均気温は0.8~4.0℃の範囲で上昇するだろうとされる。
気候の温暖化が進むと、ただ単に暑くなるだけではなく、世界的に大気の流れが不安定となり、気象が荒れ模様になるとされる。じっさい気温が上がると、海面からの水分の蒸発量が増加、それは結果として降水となって戻ってくるため、世界規模で降水量が増加、それによる災害が増えるだろう。そればかりではなく、気象現象の予測が極めて難しくなるだろう。また気温が上昇すれば、南極や北極での氷床や氷山が融け始め、世界の海水位が20~60㎝の幅で上昇するだろうと予測されている。さらに高緯度地方では永久凍土が溶解し、地表面が変動して予測のつかない現象が起きるだろう。また温暖化に伴って、今まで軽視されていた、あるいは知られていなかった伝染病が大流行することにもなりかねない。じっさい今大流行している新型コロナウイルス(COVID-19)も、言ってみれば気候温暖化 がもたらした感染症といえるだろう。
このように気候温暖化は、気象災害ばかりではなく、私たちが予想もしなかった想定外のさまざまな災害や危機をもたらすことになるのではないだろうか.
カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大学のキャンパス、メイン・モールの風景。
人類は選別されるのだろうか
21世紀に入ったとたん、私たち人類は新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的蔓延に翻弄されている。2020年7月中旬の時点で、世界の感染者総数は約1500万人に達し、死者数も約60万人に及んでいる。その数はいまこの瞬間にも増え続けており、WHOの予測によると、世界の感染者数は遠からぬ将来、1億人に達するのではないかともされている。
このままでいけば、どのような方策を講じようとも、世界中すべての人間は好むと好まざるとにかかわらず、遠からぬ将来コロナウイルスに感染するのではないだろうか。つまり私たち人類は、すべての人がコロナウイルスに侵されて、ウイルスを体内に保有することになるだろうか。そうなると、人類はいずれ絶滅してしまうかもしれないが、いま一つの道はこのコロナウイルスとの共生をはかることだろう。すなわち体内に侵入したコロナウイルスを、細胞内に置いたまま、ウイルスの存在を容認し、そこでのウイルスとの共存を図る、さらに言えば、ウイルスを細胞の核内に取り込んで核酸の一部として認めることにより、このコロナウイルスは無害化され、むしろ人類の細胞核の一部となってしまうのである。こうしてコロナウイルスを取り込んで同化することで、私たちはコロナウイルスを無害化してしまうことにもなる。
ただ問題は、すべての人間がこうした裏技を持っているとは限らない。ある人々は、こうして侵入したウイルスとの同化ができず、最後までコロナウイルスと戦い続け、敗北して命を失う人も出てくるだろう。
こうしてコロナウイルスと同化できる能力を持っているかどうかによって、人類は選別され、その遺伝的特性によって絶滅する人類(個体群)と、生き残ってさらなる繁栄を続けられる個体群に分けられてしまうのではないだろうか。
緑は美しい
新緑の季節である。この時期、森の中を歩くとなんとも穏やかなくつろいだ気分になる。森には大小さまざまな木が生えていて、その種類も多様である。木の葉の形も、丸いものあり、長いものあり、掌のようなものあり、縁に刻みの入ったものもあり、さまざまな形がある。木ばかりではない。足もとにはさまざまな草も生えていて、季節ともなれば美しい花を見せてくれる。そこにはまた、いろんな動物も棲んでいる。リスやネズミのような小さな動物、キツネやタヌキのような中型の動物、熊のような大きな動物。またカラスやキツツキ、メジロ、ホオジロ、フクロウのような鳥たち。さらには、そこにはいろんな虫たちも棲んでいる。
森はまさに生き物たちの社会である。そこではいろんな生き物たちがお互いに手を取り合い、競争しあい、また助け合いながら生きている。まさに人間社会のように、それぞれの持ち場でそれぞれの役割を担いながら協同して生きているのが森の社会である。そんな中で、生き物が生きる根本となる働きをしているのが緑の植物である。森の緑は私たちの気持ちを和ませてくれるばかりか、あらゆる生き物が生きていくための根本的
な働きをしてくれている。
植物の緑色のもとは、植物の細胞の中にある葉緑素という色素である。複雑な化学構造をしているが、これは植物の基本的な働きである光合成に直接かかわっている物質である。光合成とは、教科書的に言えば、水と二酸化炭素を結び付けて炭水化物を作るという働きである。このとき植物はエネルギー源として太陽の光を利用している。人間の目に見える可視光線といわれる太陽の光は、その波長から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の、いわゆる虹の七色から成っている。光合成もこの可視光線を使って行われるが、この七色の中でとくに赤、橙、黄と、青、藍、紫の部分がエネルギーとして吸収され使われる。すると緑の部分は使われることなく、植物から反射されて捨てられる。この光を私たちは目で見て、植物の緑として認識するのである。つまり植物が緑色に見えるのは、植物が太陽の七色の光のうち、赤、橙、黄と、青、藍、紫を吸収し、使われなかった緑色を反射しているからである。
こうして作られた炭水化物によって地球上のすべての生き物は生かされている。私たち人類も、植物の光合成によって作られた炭水化物を取り込んで、体内で再び水と二酸化炭素に分解し、その時に出てくるエネルギーを利用しているのである。私たち一人一人も、言ってみれば、太陽のエネルギーによって生かされているといってよい。だからこそ一面の緑色に満ちた森を見て、私たちは、しあわせな和んだ気持ちになれるのであろう。
東京の夜空にかかるスーパームーン (2020年4月8日)
人類はここで滅亡するのだろうか
21世紀に入って間もないいま、世界はCOVID-19(新型コロナウイルス)の大流行に見舞われ、かつて経験したこともないひどい状況に陥っている。この病気が知られるようになったのは2019年のことだったが、ウイルスはたちまち全世界に蔓延し、半年後の2020年7月上旬、世界全体の感染者は約1000万人に達し、死者の数も約50万人に及んでいる。このままの状況で進むと、遠からぬ将来、感染者数は1億人に達するだろうとも予想されており、極論すれば人類は滅亡しかねないことにもなるのだろうか。
すべて生物は原則、細胞からできている。細胞は分裂増殖を繰り返す核と、それを包み込み核に栄養を与え核が生きていける微細環境を作っている細胞質の部分とからなっている。ところがウイルスには細胞質の部分がなく核だけからなっている。そのためウイルスは、生きていくためには否応なく他の生物の細胞に入り込んで、その細胞の働きを利用して生存を図らなければならない。まさに他の生物の細胞に寄生しなければ生きていけない存在なのである。ところがこうしてウイルスに寄生された細胞は多くの場合、細胞としての正常な機能が損なわれ、それが生物の生理作用を狂わせ、結果としてその生物の健常な生き方が侵されてしまう。そのためウイルスに取りつかれると、人間を死に到らしめてしまうことにもなる。
このたびの新型コロナウイルスは、私たち人類の生活様式を大きく変え、これまで築き上げてきた文化・文明、行動規範をすっかり変えてしまう可能性を持っている。私たち現生人類ホモ・サピエンスは、本来的に群れを作り密接にかたまりあって大声で会話をし、また歌を歌ったり肩を組みあったり、騒ぐのが好きな動物である。いわゆる村祭りはその典型例だが、皆でお神輿や山車を担ぎ引っ張り、また津軽の「ねぶた祭り」や阿波踊りのように皆で繰り出して騒ぐのが好きな動物である。くわえて私たち人類は、機会を作っては大勢で集まって宴会をやる。また欧米人は親しさを表す行為として、抱擁、握手、ハグ、接吻などをする。まさに密接な接触行為である。世界の死者数で欧米人の数が比較的多いのは、そんな密接な風習によるところもあるのではないだろうか。
ところがいま、コロナウイルス対策として、‟三密”を避けろという。三密を避けよとは、すなわち密閉、密集、密接な状態を作らぬようにしろということだが、本来人間は群れを作り、くっつきあってお互いにおしゃべりすることの好きな動物である。雰囲気がもりあがると肩を組みあい抱き合ったりして親密さを示す。そんな私たちに密集するなということ自体、人間の本性を否定することになる。ソーシャルディスタンスを保てということも、ソーシャルディスタンスなどというわけの分からない言葉もさることながら、お互い2m近く離れて近づくなということで、お互いを疎遠にして人間の親密さを否定する行動である。マスクの着用も、その意味は分かるとしても、お互いの表情を読みにくくする。人間は嬉しいとき悲しいとき、喜んでいるとき怒っているとき、それを明らかに表情で表す動物である。マスクでは、その表情が半分もわからない。すると、その人がいまどんな感情でいるのかマスクをつけていると正確には読み取れない。このようにコロナウイルスの流行とそれへの対応は、人間同士の触れ合いを疎遠にしてしまう行為である。このようにコロナウイルスへの対応は、これまでの人間の行動様式と文化をすっかり変えてしまうことにもなるのではないだろうか。
それに加えて、このところ気になるのはいわゆる“オンライン”行動である。コロナウイルスの感染を避けようとするのは理解できるが、会議でも学校の授業でもオンラインとやら、パソコンに向かって相手と話をする。それもパソコンの画面には大勢の参加者や関係者の顔が映っている。会議といっても、まさに電子媒体を通じての意見交換であり、生身の人間との会話ではない。さらに極端なのは、オンラインによる合唱や楽団の音楽の演奏会である。それぞれ楽器を持った演者が、数十人も画面に現れ、いっせいに音楽を演奏する。さらに滑稽なのはオンライン飲み会である。パソコンに向かって、モニター上に映っている仲間と酒をくみかわす。まったくなにもかも、いまやバーチャルな世界。このようなバーチャルな世界が日常化し、それに完全に馴れてしまうと、リアルな世界に戻ったとき、私たちはただ戸惑いを感じて行動できなくなるのではないだろうか。つまりこのコロナウイルスは、これまで築き上げてきた人類の文化・文明を否定し、人類の生活様式をすっかり変えてしまうかもしれない可能性を持っている。
それにしても私たちは、この新型コロナウイルスを完全に克服することはできるのだろうか。現在のコロナ対策はコロナに感染しないように努めることであって、ウイルスそのものを駆除したり抹殺しようとするものではない。おそらく現代の科学では、まだこのウイルスを駆除できるだけの技術は未発達なのかもしれない。一般に細菌の場合であれば、ペニシリンやストレプトマイシンなどの抗生物質が開発され、それが使われる。だが、このコロナウイルスを駆除できる薬品はまだ開発されていない。いかに感染を避けるかということと、感染した場合の抵抗力をつけることであって、たとえて言えば、いかに敵にやられないよう身を守るかというだけで、敵を攻撃し抹殺するすべはない。そこにもこの新型コロナウイルス(COVID---19)への対応の難しさがある。だからこそ、このままコロナウイルスが蔓延し、またもしもコロナウイルス側に、より強力な変異株が現れた時、人類は対抗のすべを失って皆殺しにあってしまうのかもしれない。その可能性は十分に考えられる。
するとここまで繁栄を誇った人類は、21世紀を迎えた時点で地球から姿を消してしまうことにもなりかねない。そしてその後にはネズミやカラスが巣を作る廃墟となった巨大な建築物が、ただ空しくそびえているだけなのかもしれない。
春浅い釜池
富山県のとある町、上市町の山あいに、深い森に囲まれた静かな池がある。釜池と呼ばれる池である。 だが、この池には哀しい伝説が・・・。
むかし、この池のほとりには、ときどきどこからともなく 美しい娘が現れて、悲しげに池面を見つめ、時には涙を流していたという。
それは、ある満月の日だった。まだ月の昇らぬ夕暮れ時、池のほとりに立った娘は、いつになく激しく 泣きじゃくっていた。たまたま、通りかかった村人が娘に話しかけ、わけを聞いたところ、娘が言うには、 私はこうして人の姿をしているけれど本当は人ではなく、この池に棲む大蛇なのです。
ところが今日、満月が昇るころ、私は大蛇に戻って天に戻らなければならないのです。そのとき、 天地がひっくり返るほどの大嵐になるでしょう。私は、そんなことはしたくないし、ずっとこの美しい 池のそばで暮らしたかった。でも、それが私の運命なのです。
皆さん、どうかすぐにこの池の近くから 逃げてください。
その夜、満月が昇るとまもなく、空一面に暗雲が一挙に広がり、激しい稲妻と雷鳴がとどろき、 かつて村人が経験したこともないような大嵐となった。村のあちこちで、小川ははんらんし、山は崩れ、 斜面は流され、田畑は崩壊し、村は大災害に襲われた。
あれから何百年たったのだろうか。今では池は清らかに静まり、四季おりおり美しい姿を見せて くれている。池のまわりには山桜や雪椿の花も咲き、ときおりカモシカが現れては、のんびりと池を 泳いでいる。それは、自然に満ちた富山の、実に美しい風景である。る。
(北日本新聞より抄約)
私たちはアリンコなのか
世界どこの国であろうと大都市の中心部いわゆる都心へ行くと、そこには体を反らせて見上げるほどの高層ビルが立ち並び、道路は一面に舗装されてそこには大小さまざまな車が途切れることなく走り、また人々が群れ歩いている。そこはまた、さまざまな騒音で話し声も聞こえないほどうるさい所だ。それに加えて都市の中心部には、本来の緑がほとんどなく、どちらを向いても灰色の無機の世界と化している。
だがこうした大都市の中であっても、街路樹の根もとや道路の端をよくみると、そこには蟻の巣がよく見つかることがある。舗装道路の亀裂や敷石の継ぎ目のあたりには巣穴があって、たくさんの蟻が出たり入ったりしている。そんな蟻たちは一生懸命、巣穴からこまかい砂粒を運び出したり、逆に植物のきれっぱしをくわえて運び込んだり、休む間もなく仕事をしている。蟻たちはほんとうに働き者だ。巣穴の中には、きっと組織化された蟻の社会システムがあるのだろう。
巨大都市の中で、朝起きてから夜寝るまで、一生懸命に働いている私たち人間も、電線に止まっているカラスや、あるいは下水溝を走りまわっているネズミの眼で見たら、巣穴のまわりで忙しげに歩きまわっているアリンコ(蟻)と同じ姿にみえるのではないだろうか。つまり私たち人間も、結局は道端のアリンコと同じようなものなのではないだろうか。すると、この巨大な建造物も、草原に林立するシロアリの作った巨大アリ塚と同じようなものなのだろう。
異形の地形フードゥー
カナダ、アルバータ州の南部、ロッキー山脈の東の乾燥地帯にはバッドランド (bad land)と呼ばれる場所がある。今から数千万年も以前に堆積した地層が、氷河期の末期、氷河から溶け出した膨大の水の流れによって削られて作られた浸食地形である。そこでは乾燥した気候のもと、樹木は生育せず乾燥に強い草や灌木がまばらに生えているだけの荒涼とした景色が広がっており、そこからは各種恐竜をふくむさまざまな化石が発見されている。
そんな中、ひときわ目立つ奇妙な景色にフードゥー (hoodoo) と呼ばれる地形がある。氷河から溶け出した大量の流水が堆積岩を削った結果、岩石の硬さによって浸食度合いの違いが生じ、このような異形の地形が出来上がった。アルバータ州の中西部、レッド・ディア(Red Deer) の街から東に行ったあたり、レッド・ディア川沿いによく見られる奇妙な景色である。
不思議な生き物
今から百万年後の世界にタイムスリップしてみよう。そのころ、もちろん人類はとっくの昔に絶滅してしまっており、ほとんどの脊椎動物も、原始的な魚類を除いて地球から姿を消してしまっていた。そして昆虫類が繁栄をきわめ地球の覇者となっていた。そんな中で実に奇妙な動物に出会ったのである。体調が約1メートルもある扁平な形の、オオサンショウウオにも似た動物だった。たぶん両生類なのだろうか。珍しい生き残りの脊椎動物だったのだろう。そんな動物が、河原の砂地の上にのんびりと横たわっていた。
だが奇妙なことに、その動物の体が実に美しい緑色をしていたのである。体の表面に藻が付いているわけではない。それでいて、つややかな緑色なのである。よく調べてみると、なんとその動物の皮膚の下には一面に葉緑体が集まっているのである。どうやらこの動物は、植物細胞を体内に取り込み皮膚の下に集めているのではないだろうか。そうすることによって、この動物は植物と共生し、植物に体内で光合成をやってもらい、その産物を食料としてもらっているのであろう。いっぽう植物細胞にとっては、動物から水と動物体内での廃棄物としての二酸化炭素をもらい、また体を保護してもらうばかりでなく、動物が日の当たるところでひなたぼっこをしてくれることで、いつも太陽光の当たる所へ連れて行ってくれるという利点もある。
こうしてここでは、動物と植物が文字通り一体となって双利共生の関係を築くという奇妙な生き方が成り立っているのであろう。
ソフトエネルギーの開発
最近、太陽光、風力、水力、潮汐力などの、いわゆるソフトエネルギーを使った発電が広がっている。たしかに今、最大の地球環境問題となっている二酸化炭素の増加による気候温暖化を防止する手段として、化石燃料に代わるこれらソフトエネルギーの利用はたいへん結構なことである。極力推進すべきであろう。
だがいまひとつ、きわめて重要なことは、これまでのように成長を前提として、ひたすら拡大発展に依存した社会システムの見直しではないだろうか。18世紀中ごろに確立された資本主義は、消費の拡大を前提としている。物が売れれば金が儲かる。そこでは貨幣で評価される価値体系が確立され、人々は金儲けのためにひたすら競争してきた。金が儲かるなら自然が失われようと環境が壊されようと構わない。それは必要悪とさえ見なされてきた。
やがて貨幣が社会の価値の基準となり、どれほどお金を持っているで、その人が評価されるようにもなった。その結果、裕福な人々は豊かな生活を享受するばかりか、世間から尊敬もされ、さらには富裕層が権力を持ち社会をも仕切るようにもなった。その結果、社会システムはますます富裕層の人たちに都合のよいように変えられてゆき、このことがさらなる貧富の較差を拡大させる結果にもなった。
ソフトエネルギーの開発はよい。だが同時に私たちは、これからは無制限の経済成長に歯止めをかけ、格差のない平等な社会の確立をめざしつつ、同時に自然や環境を保全するよう努めねばならないのではないだろうか。
21世紀はきびしい世紀だ
2020年(令和2年)。今年はどんな年になるのだろう。令和という言葉が示すように、平和で穏やかな年であってほしい。だが今年もまた、いろいろと事の多い年になるのではないだろうか。すでに中東では不穏な動きが発生している。まかり間違えば第三次世界大戦ともなりかねない状況が起きている。
人間世界のこともさることながら、地球規模では気候の温暖化がさらに加速すのではないだろうか。いま北半球では真冬というのに、不気味なほどに暖かい。雪国では異常なまでに雪が少ない。これまでに経験したことのないような気候になっている。
今年もまた猛暑や豪雨、巨大台風などに襲われるかもしれない。また北半球であれ南半球であれ、温暖化の結果、大陸の内奥部では異常な乾燥気候が続いて、大規模な山火事、森林火災が発生し森林が焼失している。そのことがさらに温暖化を加速するという悪循環が起きるだろう。ここまで繁栄を極めた人類も、ある意味、もう繁栄のピークを過ぎたのではないだろうか。
地球の空は美しい
地球の空は美しい。見上げるとそこには一面の青い空が広がり、ところどころに千切れたような雲が浮かび、雲はゆっくりと流れながら見ている間にも千変万化する。刷毛ではいたような雲、真綿をちぎったような雲、繭玉のような雲、お団子のような雲。ときには暗い群雲となって天を覆う。
青い空を見上げていると、なんだか自分が天に引き上げられるような気にもなる。あの空の向こうには何があるのだろう。むしょうに懐かしい気さえおぼえるのである。
今年(2019年)も猛暑の年だった。まだ5月というのに北海道では佐呂間で39.5℃、帯広で38.8℃、足寄で38.7℃、池田で38.6℃と、猛暑が記録された。7月には、熊谷(埼玉県)で41.1℃、青梅(東京都)で40.8℃、山形(山形県)で40.8℃、多治見(岐阜間)で40.7℃、美濃(岐阜県)で40.6℃と、異常なまでの高温が記録されている。8月に入るとさらに猛暑が続き、美濃(岐阜県)、金山(岐阜県)、江川崎(高知県)でそれぞれ41.0℃、熊谷(埼玉県)、多治見(岐阜県)で40.9℃の気温が記録された。
気温だけではない。5月18日には鹿児島県で1日に500ミリメートルを越す雨が降っている。さらに今年、10月12日には巨大台風19号が関東甲信越地方を直撃、その後も豪雨が続き関東から東北地方南部にかけて、洪水、はんらん、冠水浸水、斜面崩壊等が広範囲に発生、そこでは100人近くの人命が失われ、8万戸を越す住宅が被害を受けるなど、深刻な災害が発生した。
このような気象災害は日本だけではなく、世界各地で大暴れの気象が発生している。
あの月には人がいる
1969年7月20日16時17分(アメリカ東部時間)、人類初の月面着陸歩行が、アメリカの宇宙飛行士ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンによって行われた。二人は着陸後21時間30分にわたって月面に滞在した。その時の有名な言葉が、“一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である”というアームストロングの言葉だった。今年2019年は、あれからちょうど半世紀になる。
この写真は、実は二人の宇宙飛行士がじっさいに月面に滞在している時点で地球から見た月の写真である。この写真が撮影されたのは、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州の太平洋岸にあるバンクーバー島の、ほぼ中央部にあるアッパーキャンベル湖の湖畔からである。たまたま湖上に美しく輝く半月を見て、私は写真を撮ったのである。それはカナダの太平洋沿岸時間で7月20日、21時30分ごろだった。もちろんその時、この月で宇宙飛行士が月面歩行をしているなどとは全く知らなかった。後になってこの写真が撮られたこの時間に、実際に月面には二人の宇宙飛行士が立ち歩いていたことを知って大いに驚いたものである。
荒れ狂う地球
最近、地球が荒れ狂っている。先ず天候である。今年、5月26日、日本では異常な高温が記録された。例えば北海道の佐呂間では、39.6℃という、まさに体温をはるかに超える気温である。佐呂間だけではない。その日、北海道では帯広で38.8℃、足寄で38.7℃、池田で38.6℃と、各地で異常な高温が記録されている。その日、関東周辺でも福島で35.3℃、長野で34.2℃、熊谷で36.2℃、高崎で32.0℃、東京でも32.6℃という、これも異例の高温だった。まだ真夏とは言えない5月というのにである。
こうした異常高温は日本ばかりではなく、日本を含む東アジア、東南アジア、アフリカ北部および南部、カナダ南西部、米国北西部でも起きている。気温ばかりではない。豪雨も各地で発生している。5月18日から20日にかけて、鹿児島県では豪雨が発生、屋久島ではその時期、500mmを超える豪雨が襲った。ほぼ一か月分の雨が一両日で降っているのである。その後、6月下旬から7月上旬にかけて、熊本県や長崎県では、異常なまでに大量の雨が降って、さまざまな被害が発生した。
こうした異常高温、集中豪雨は、確かに自然現象にはちがいないが、その根底には人間活動が関わっているのも事実である。いわゆる気候温暖化である。人類による大量の化石燃料の消費によって、廃棄物としての二酸化炭素が大量に発生し、その温室効果作用によって大気の温度が高まっているのである。石炭、石油、天然ガスと言った化石燃料は、過去に繁茂していた植物の働きによって太陽の熱エネルギーが固定され、それが植物体や植物からエネルギーを得た動物の形で地下に埋没して、そこに固定された太陽エネルギーが埋蔵されているのである。したがって、化石燃料をエネルギー源として使うということは、地下に固定埋蔵されていた過去の太陽エネルギーを再び熱エネルギーに変換して利用していることである。
気温が上がれば当然、海面からは大量の水が蒸発する。蒸発した水はやがて雲となり、雨や雪として降ってくる。したがっていま世界中で起きている豪雨豪雪も、自然現象とはいえ人間活動による気候変動つまり温暖化の結果と考えてよい。
荒れ狂う天候だけではない。最近、地震も起きている。6月18日深夜、山形県から新潟県にかけて最大震度6強を記録した地震が発生した。その後も余震が続いている。こうした地震は日本だけではない。ここ3ヶ月の間にも、ペルー、パプアニューギニア、ニュージーランド、インドネシアなどで、マグニチュード7以上の大規模地震が発生しているのである。まさにいま地球は、天も地も荒れ狂っているとしか思えない。
花たちが誘っている
春盛りの五月、街を歩いていると、いたるところにツツジ、バラ、シャクナゲ、ミズキ、ジャスミンなどが誇らしげに花を広げ、私たちの視線を集めている。植えられた植物だけではない。道ばたの雑草をみると、そこにもタンポポやカタバミ、オオイヌノフグリ、ヒメジョオン、スミレ、ナガミノヒナゲシなどが、これらも誇らしげに花を咲かせている。花たちは、まさに私たちを誘い呼びかけているかのように咲いている。
そう。まさに花たちは私たちに呼びかけているのである。とくに花たちが呼んでいるのは、飛んでいる虫たちである。花たちは、虫たちに来て欲しいのである。そのため花は、蜜や花粉などご馳走を用意して虫たちを招いている。だが花たちの本音は、虫たちに花粉を運んでもらって、おしべからめしべへ花粉を届けてほしいのである。
花の中にはふつう、めしべとおしべがある。めしべとおしべが、別々の花になっていることもある。めしべは雌の、おしべは雄の生殖器官である。おしべの先には葯という袋があってその中には大量の花粉が入っている。花粉はいわば植物の〝精子〟にあたるものであり、これがめしべの先端についたとき、めしべの中にある〝卵子〟と合体して新しい種子ができ、それがやがて地に落ちて芽を出し、新しい植物となって植物が増えていくのである。虫たちは植物から蜜や花粉などの報酬を受け取って、受精を助けてあげている。だからこそ、花は虫に訪ねてきて欲しくて、目立つ色や形、あるいは芳香などを具えて虫たちを呼んでいるのである。その美しさに惚れて、私たち人間までもが花を愛し、わざわざ栽培までしているのである。
桜の花は美しい
日本の国花ともされる桜は実に美しい。桜の中でも最もよく目にするのは、ソメイヨシノという品種である。これはオオシマザクラとエドヒガンを交雑した、いわば雑種であるが、この桜は気温が15度になると、まさに春の訪れを告げるかのように咲き始め、その開花前線が季節とともに南から北へと進んでいく。この桜はすべての枝がいっせいに、ほとんど同時に花を咲かせることで、樹木全体が見る見る見事な花に覆われてしまう。加えて、ソメイヨシノは野生種ではなく人が植えたものなので、ふつうは街路樹として整然とが並んでおり、それが一斉に開花するのだから、道路がまるで桜のトンネルのようにもなってしまう。しかもほとんどのソメイヨシノの樹がクロ-ンなので、ある場所に植えられたソメイヨシノは、皆が同時に花を咲かせる。本当に言葉では言いつくせぬ見事さである。これほど大量の桜が植わっている国は、日本のほかにあるだろうか。また、花の季節ともなれば人々は桜の下で宴会を開き花見をする。これもまた寒い冬から解放された春の楽しみ方であろう。
桜は街路樹としてはもちろんだが、公園や人家の庭、ちょっとした空き地などにも植えられていて花を咲かせる。また山に行けばヤマザクラやカンザクラ、オオヤマザクラ、シダレザクラなど、さまざまな桜がある。ソメイヨシノの開花している期間はほぼ1週間ぐらいだろうか。盛りを過ぎると、桜はこれもまた一斉に散り始める。風に誘われるかのように、花びらが樹から離れて吹雪のごとく舞い上がり、飛び散ってゆく。これぞまさに花吹雪である。こうして散りぎわの美しいのも桜の特徴と言ってよいだろう。
咲き誇っていた桜の花が、あるときいっせいに散り果て、その散りぎわの美しさから、かつて戦時中の日本では兵士たちの戦死を散る桜になぞらえて、国のために花と散れと教えられていたものだった。まさに〝散兵線の花と散れ”という軍歌の一節があったのである。
ソメイヨシノの面白いもう一つの特徴は、幹桜である。ソメイヨシノの古木では枝先ではなく、太いゴツゴツとした幹から数輪の花が花束のようにかたまって咲いていることがある。幹から直接に花が出ていることから、幹桜と呼ばれており、これも美しい桜の面白い習性である。
ソメイヨシノの幹桜
人類社会の繁栄を築いたのは女性たちだ
かつて地球には、今から十万年ほど前、現代人類(ホモ・サピエンス)と、それにきわめて近い種ネアンデルタール人が共存して棲んでいた。ネアンデルタール人は主にヨーロッパ大陸を生息域とする人類だったのに対し、現代人は主としてアフリカ中北部に生息していた。この二つの人類の間には、ときには交流があったものと思われ、両者の間には、あいのこ(ハーフ)も出来ていた。
ネアンデルタール人はもちろん直立二足歩行し、大脳は現代人よりは僅かに大きく、したがって知能は私たちと同様に高度に発達していたものと思われる。ところが、今からおよそ二万五千年ほど前、いつのまにかネアンデルタール人は地球から姿を消してしまった。絶滅したのである。絶滅の原因はよく分かっていないが、一つの仮説として、ネアンデルタール人は基本的に家族単位で離れ離れに暮らし、皆で交流し合ってコミュニティを作ることはほとんどなかったのではないかとされている。その当時、当然ながら乳幼児の死亡率は高く、子供が生まれても必ずしも皆が成人に達するものではなかった。そのため、家族単位で離れ離れに暮らし他の家族との交流も乏しかったネアンデルタール人は、次第に人口が減って、ついには地上から姿を消してしまったのではないかとされる。
それに対し、私たち現代人類(ホモ・サピエンス)は、特徴として皆で群れを作って交流しあうところがあった。住居をくっつけて集落を作り、朝に晩に仲間で話をし、また狩猟や食料採取などの作業を皆で協力し合って行っていた。
そんな中で、コミュニティの中心となったのは女性たちだった。女性は会話能力が発達していて、女性どうし出合うと直ぐに話を始める。しかも一度話し始めるとなかなか終わらない。そこへ通りかかった別の女性も加わって話はさらにはずむ。極言すれば女性たちは一日中話を続け、会話を楽しんでいる。そんな会話の中で、女性は自分の体験に基づいてお互いに教え合い、知恵を交換し合っていく。子供の育て方についての助言から始まって、病気や怪我をしたときの対処方法などを自分の経験に基づいて教えあう。また子供が病気やけがをしたときには、母親だけでなく、まわりの女性たちも手を差し伸べてその子を救おうとした。その結果、乳幼児の死亡率はネアンデルタール人に比べると格段に低かった。そればかりでなく、女性たちはうまく家事をこなす方法も教え合い、さらには集落のあり方や運営に関するさまざまな意見提言までも行い、それがコミュニティの運営や安定を助け、集落の繁栄、ひいては人類社会の発展を築く結果となった。かつては女性たちによって、今ふうにいえば政治までもが仕切られていたと言ってよいだろう。
もろん人口の半分は男性である。だが男性は本来が怠惰な生き物である。種つけ以外には興味がなく、日ごろからゴロゴロと怠けては寄生虫のように女性に頼っていた。だが女性にせっつかれて狩りや採集など野外の力仕事などはやっていたが、男性は仲間どうしで集まることもあまりなく、お互いに出会っても女性ほどに会話ははずまず、話はかんたんな挨拶や連絡程度に限られていた。ましてコミュニティの運営などには関心がなく、女性に主導され頼まれてときどき仕事を手伝う程度だった。もっぱら女性の補助役や力仕事の手先をやるにすぎなかった。
このように、現代人類の社会発展の基盤とこれまでの繁栄を築きあげてきたのは、ほかならぬ女性の発想と会話能力だったのではないだろうか。
人はなぜ戦争をするのだろう
人は極度に知能が発達した動物である。その知能を使って、人は高度な文明を築き上げ、他の動物には見られない生活様式を発達させた。人はまた集団で社会を作り、お互いに協力しあいながら社会の発展を目指してきた。人は互助の精神が強く、弱い者を助け、皆が幸せになることを願い、その方向に努力している優しい生き物である。
ところが、である。そんな人ではあるが、人はしばしば殺し合いをする。個人レベルでは、気に入らない相手を殺そうとする。また相手の所有物を奪おうとして相手を殺す。あるときは親が子を殺し、また子が親を殺す。仲間どうしで殺し合いをする。本来がやさしい性質と思われる人はなぜ同胞を殺すのだろう。人類の歴史は、まさに殺し合いの歴史といってよい。個人レベルの殺人から、部族、国家間の戦争を含む殺人まで、二十一世紀になった今も殺し合いは世界中で後を絶たない。
殺人の技術も進歩し続けている。各国は、軍事技術を発達させ、効率よく相手を抹殺する方法を進歩させている。かつて、拳や石で殴り合っていたであろう戦いが、やがて槍や刀剣となり、さらには火薬を使った銃砲となり、ついには核兵器まで現れた。加えて航空機はもちろん、ミサイルなどの攻撃手段も進歩し続けている。
なぜ人は、自国を守るために他国を武力で攻撃するのだろう。いったん国家間の戦争が起きると、数十万、数百万の人が殺傷される。その中には、戦争とは関係のない無辜の住民も多く含まれている。軍隊は、どれだけ多くの敵兵を殺したかを誇りあう。個人的に付き合うと、ふだんは本当に優しい人たちなのだが、戦となると軍人は平然と人を殺し、しかも殺した敵の数を競い合い自慢し合う。もっとも、兵士たちは敵である相手を殺さなければ自分が殺されるという立場にもあるから、相手を殺さざるをえないのである。
国家とはいったい何なのだろう。国家は武装して自国を守り、他国を武力侵略して自己の権益を広げる。そのときおびただしい数の同胞の生命が失われても、それは正当化される。
言語や文化や民族が違ったとしても、国家はなぜ本質的になごやかな関係を保っていけないのだろう。すべての人はホモ・サピエンスとして同じ種であり、国が違っても民族が違っても、お互い子をなせる関係なのにである。なのに、人はなぜ戦争という残虐な行為をやめられないのだろう。そして平然と、あるいは誇らしげに同胞を殺傷できるのだろう。戦争とは、人類が引き起こした最大の矛盾である。
だが、戦争を支えているのが軍需産業である。軍需産業にとって戦争ほど儲かるチャンスはない。戦争では、制限なしに武器を使う。より高度な破壊力を持った武器が金に糸目をつけずに次々に開発され使われる。武器は破壊されればされるほど、新しい武器が必要となり、それを製作するために軍需産業はフル稼働で活動する。その結果、戦争により軍需産業には大量の国家予算が注ぎ込まれ、戦争ほど効率の良い金儲けのチャンスはない。だから軍需産業にとって戦争は絶対に起きて欲しいものである。そこでどれほど多くの人命が失われようと、金儲けには換えがたい。ここにも人類の抱える大きな矛盾がある。
いま、地球は天候が荒れ狂っている。2018年夏、日本は異例なまでの猛暑だった。熱中症で搬送された人、またそれにより亡くなった人の数も記録破りだった。ところが、この冬はまた、この数日、異常なまでの寒さ、また各地ではこれも異例なまでの降雪を記録している。
毎日がこう寒いと、トランプ大統領ではないが、温暖化なんてデッチ上げだともいいたくなる。だが、傾向として温暖化が進んでいることは事実で、温暖化が進行すると、地球大気の流れが不安定になり、天候は変動が激しく荒れ模様になるという。この冬は、まさにこうした気候の不安定化に見舞われているのだろうか。北極圏の寒冷気団が南下し、いま北東アジアを覆っているという。その結果、日本でも異常なまでの降雪となっているのだろう。
北米大陸西海岸の巨木林
北米大陸の西海岸一帯には、北はアラスカ南部から南はカリフォルニア州北部にかけて、壮麗な針葉樹林が発達している。
基本的に低海抜地では、ダグラスモミ(Pseudotsuga menziesii)、アメリカツガ(Tsuga heterophylla)、アメリカネズコ(Thuja plicata)などから成る森林である。木が大きいことが特徴で、胸もとの高さのあたりで、直径が2メートルを超える樹木が密生して、見るからに荘厳な雰囲気がある。
この森林帯は、西岸性針葉樹林帯と呼ばれていて、まさに北米大陸の植生帯の一つを代表するものである。この森林帯は、温暖湿潤な気候のもとに成立している。カナダ側に入ると、緯度は北緯49度以北になるにも関わらず、冬暖かく低地では月平均気温は氷点下になることはなく、それでいて夏は涼しい。これは、ケッペンの気候区分でCfbあるいはCsbとなる気候である。冬が雨季となり、低地では大量の雨が降る。夏は逆に乾燥している。
この西岸性針葉樹林帯の、いわば頂点が、カリフォルニア州シエラ・ネヴァダ山脈に発達しているセコイアの森であろう。胸高直径が数メートルにもなるセコイアの巨木が、文字通り林立しているこの森は、まさに人を圧倒する迫力に満ちている。
もう、見上げるだけで物も言えなくなるほどの迫力である。自然とは、こんなにも凄いものかと、ただただ生唾を呑むほどの
森である。
セコイアの森が近付いてきた。そこには、独特の荘厳な
雰囲気が漂っている。
これが、世界一大きな樹木、ジャイアント・セコイアである。
地球という星
私たちは、何気なく朝、目を醒まし、食事をし、
職場へあるいは学校へ出かけ、家事にいそしみ、
一日を終わる。全く、ごくごく当たり前の暮らしを営
んでいる。外を見れば、そこには木や草が生えて
おり、鳥や虫が飛んでいる。ある時はネズミやモグ
ラが姿を見せることもあろう。郊外の山へ行けば、
そこには、うっそうたる森があり、針葉樹や広葉樹
さまざまな木が生えている。そこには狸や猿や
鹿なども住んでいるだろう。
谷あいには川が流れ、ところによっては水が溜まって池や湖もできている。そんな水はやがて海に集まる。
海岸へ行けば、青い海が果てしなく広がっており、寄せ波、引き波、水は大きく動いている。私たちをとりまくこうした自然、
そして日常生活。私たちは何の不思議もなく、 しごく当たり前のこととして、そんな世界で暮らしている。
ところが、宇宙の視点から見れば、私たちを含む多くの生き物がここにいることは、本当に起こり得ないと言っても良いほどの、かぎりない偶然の奇蹟の結果と言ってもよく、十億円の宝くじに当るよりもはるかに低い確率の、あり得ないほどきわめて稀有な偶然の出来事なのである。その奇蹟を起こしている要因は、実は地球という惑星の位置である。
太陽系には水星から始まって冥王星を含む九つの惑星がある。それぞれ、太陽とのある一定の距離を保ちながら恒星太陽の周りを回っている。地球は太陽の内側から三番目の惑星、太陽との平均距離は約一億四千九百六十万キロメートル。この距離の絶妙な偶然が、地球に多種多様な生物の繁栄をもたらしたと言ってよい。その決定的な理由は、地球における液体の水の存在である。
水(H2O)は、この宇宙どこにでも存在する最もありふれた存在である。ところが、ほとんどの天体では、水は気体の水蒸気か、固体の氷の形で存在する。燃えたぎる恒星ではもちろんのこと、その近くにある惑星でも、表面温度が高すぎて水は液体の形をとれず水蒸気として存在し、いっぽう恒星から離れた位置にある惑星では、逆に表面温度が低すぎて水は、固体の氷として存在する。宇宙に存在するほとんどの天体では、水はこのどちらかの状態である。
ところが地球だけは、太陽からの距離からして暑からず寒からず、水が液体の形で存在できる、まさに偶然の奇跡ともいうべき位置にあって、そこには液体の水が豊富に存在している。地球はまさに水の惑星なのである。地球がほんのちょっとでも太陽に近かったら、あるいは遠かったら、液体の水は存在せず、その結果として私たちも存在しなかっただろう。
水は、きわめて効率のよい溶媒である。太古の地球では、水の中ではさまざまな原子や分子がランダムにくっついたり離れたりしながら、単純な物質が次第に複雑な化合物へと進化し、やがて有機化合物と呼んでもよいさまざまな物質が現れたのだろう。そのとき、物質進化の主たるエネルギー源として働いたものは、海底火山周辺の熱水鉱床の熱であったのだろう。そのほか、太陽エネルギーも使われたものと思われる。
宇宙の本質的な性質として、物質は単純なものから複雑なものへと進化し、さらに次第に組織化していく。素粒子がつながり合って原子を作り、原子は原子どうしで手を取り合って分子を、分子も次々と手をつないで次第に複雑な化合物を作り出していく。世界は、単純から複雑へ、そして複雑化しながらやがて組織を作っていく。すなわち、物質は進化し複雑化し、さらには組織化、システム化する。それとともに、それぞれの物質は特有の機能を示すようになる。
有機物質を作っている基本的な元素は水素、酸素、炭素、窒素であるが、水素は一本、酸素は二本、窒素は三本、炭素は四本の腕を持っている。この四種類の元素は、お互い非常に〝仲がよく〟、出会うとお互いに直ぐに手をつなぎあって群れを作る。またつないだ手を放しては別の相手とまた手をつなぐ。こうして無限といってもよいほど、さまざまなつながり方をして多種多様な有機物質を作っていく。
今から四〇億年以上も前、原始地球では表面を被う液体の水の中で現れたさまざまな有機化合物の中でも、とくにいま私たちが ヌクレオチドと呼んでいるような有機化合物が現れ、お互いにつながり合って、長い鎖のような物質が現れたことが、生命出現への端緒と言ってよいだろう。さらにそんな長い鎖が平行に向かい合って、その間に橋のようなつながりができ、さらに鎖がねじれて、やがて長い長いらせん階段状の物質が出来上がった。いま私たちが核酸と呼んでいる物質である。核酸の中でもとくにDNAを構成する鎖の輪に相当する単位の物質ヌクレオチドは、実に数十億個とつながり、数十億段のらせん階段を作っている。とは言え、その全体の長さは一ミリメートルにも達しないほど微小なものである。
DNAが現れたことで、地球には避けようもなく生物が出現することとなった。らせん階段状のDNAは、あるとき階段の部分から二つに裂け、それぞれ片方を鋳型としてまた同じものを作り、 それがまた分裂して同じものを作る。こうして核酸には倍々ゲームで無限に増えていく性質がある。この自己複製性、自己増殖性、これこそが生物の本質である。
やがて地球史のあるとき、DNAのまわりには、さまざまな有機物質がくっついて、ひとまとまりの微小な塊ができたことが、地球上最初の生物あるいは細胞の原型であろう。肉眼ではもちろん見えない微小なこの塊が、DNAの分裂とともに分裂し、それぞれがまた有機物をくっつけて元のような塊に戻る。こうしてDNAを含むこの有機物の塊は分裂しながらも倍々ゲームで無限に増えていったのではないだろうか。こうした化学反応は水の中で、まさに水を溶媒として進んでいった。
地球にDNAなる物質が現れておそらく四十億年以上は経っているが、DNAを包み込む初期の原始細胞は、周りにあった有機 物質を細胞内にとりこんで、それを材料として細胞の部分を作っていった。また不要になった物質は細胞の外に放棄して細胞の平衡を維持していった。細胞は、ひとひとつ単独で生命としての機能と特性を持ちながらも、くっつきあっては群体を作り、細胞の集まりとして原始海洋の中で生きていたのであろう。そのうち集まりあった細胞の群体の間に、ある種の分業ともいうべき機能の違いが生じたとき、単細胞の生物は多細胞生物へと進化したのであろう。
いっぽう、DNAにはゲノムと言われる生物の作り方とでも言った情報、生物の設計図ともいうべきものも含まれていて、この設計図にもとづいて多種多様な物質が集められ、つながりあってシステム化し、生物が作られていった。太古の昔、地球上ではこうしてDNAが次から次へと自己複製を繰り返しながら原始生物 が増えていったのではないだろうか。
だがDNAの情報は正確に複製されながらも、ときおりランダムな間違いが起きる。すると情報の記憶にも僅かな違いが生じ、これにより生物には変異が生じるのである。親から生まれた子供は、親と似てはいるが全く同じではない。この僅かなズレはランダムな変異であるが、この変異に対して環境圧が働いて変異を選択するのである。その結果、生物は進化と分化をすることになった。こうしてDNAはランダムな分裂と変異を繰り返しながら、三十八億年に及ぶ悠久の進化の歴史の中で、地球上には実にさまざまな違いをもった生物が現れた。地球上には現在、八百万種を超える生物が生きているといわれている。
このように、地球が多様な生物を宿す天体になった最大の理由は、地球に液体の水が存在したことである。もちろん今も地球は 液体の水にあふれている。あまりにもありふれた存在であるため、私たちは液体の水が存在する意味を気づかない。気づいても意識しない。
私たちの体を考えてみよう。人間の体も約七〇%は水で出来ている。端的に言えば、人は人型の袋にいっぱいの水を詰め、そこにさまざまな有機化合物を入れたものと考えてもよいだろう。入れられた有機物が勝手に動きまわって、くっついたり離れたり、そこでさまざまな化学反応が発生し、それが人間の生理現象として現れ、その総合の上で人間は生きている、あるいは生かされていると言ってよいだろう。
ただし水をいっぱい詰めるとしても、それは純水ではなく、塩分を含んだ水になる。ただしその時の塩分濃度は約〇・九%と、現在の海水の塩分濃度約三%に比べると、はるかに薄い塩分濃度 である。おそらく、私たちの遠い祖先が、海中生活から陸上へ進出した頃の海水の塩分濃度がそのくらいで、その濃度を以後ずっと維持し続けているのであろう。
だからこそ、私たちは常に大量の水分を摂取している。水を飲み、物を食べる。食べ物の中にも大量の液体の水が含まれていて、それを私たちは取り入れているのである。当然のことながら、液体の水無しに私たちは生きていけない。
私たち人間の体は約三七兆個の細胞から出来ていると言われる。この三七兆個の細胞は、それぞれが独立して生きており、人体の中で決まった役割を果たしている。私たちは一人の人間として、ものを考え判断し行動している。朝起きて朝食を取り、自宅を出て乗り物に乗り、職場あるいは学校へ行く。仕事であれ勉強であれ、一日のなすべきことをなして帰宅する。夕食を取り、休養をし、一日を済ませて就寝する。すべて自分の判断に基づいて行動していると思っている。ところが、私たちの体で、本当に生きて活動しているのは細胞である。人体を構成する三七兆個の細胞が、それぞれ決められた場所で決められた役割を果たしていることで、体全体の機能が保たれ、一人の人間として生きているのである。
このように体を構成する三七兆個とも言われる細胞の一つ一つが生きている本体なのである。皮膚を作る細胞は扁平な形となって体を保護し、血液細胞は全身をめぐって体中の細胞に酸素を送りまた廃棄物としての二酸化炭素や老廃物を収集し、神経細胞は繊維状に長く伸びて情報を瞬時に伝達し、筋肉の細胞は神経からの指令に基づいて収縮し、さまざまな動作を行っている。消化菅を構成する細胞は酵素を分泌して食物を分解し吸収する。血管、各種内臓を作っている細胞であれ、その一つ一つが生きている本 体であり、それらおびただしい数の細胞の調和のとれた連携作業の結果として私たちは一人の人間として生きている。個人としての自分はその壮大な働きの総表現にすぎないのである。したがって、自分が一人の人間として考え判断したとしても、それは無量無限の細胞の活動の総和であり、システムとしての自分の表現にすぎないのである。そしてその膨大な量の細胞を支えているのが液体の水である。
生物の歴史という視点から見ると、かつて海の中で発生した生命(細胞)は今も常に水に包まれていることでのみ存在できる。したがって私たちの体も、いわば水に満たされた器の中に三七兆個の細胞が浮遊して、それぞれ決まった働きをしているものと言ってよいだろう。その総和としての表象が自分であり、自分の判断と行動として現れているのである。
いまひとつ、生物の基本的な性質として自己増殖という働きがある。それは基本的にはDNAの引き起こす機能である。DNAが二つに分かれ、半分になったDNAは、それぞれが小さな細胞に収納されながら繫殖子として、半分になった相手を求め合体してもとに戻ろうとする。それが生物の生殖の原型と言ってよい。
生物にはすべて、基本的に雄と雌がある。もともと生物は自己増殖を続けていたが、それでは遺伝子の変異の幅が限られ、多様な環境や環境変動への適応に、やや弱い所があった。そのうち、 他の個体との遺伝子を交換し合うことで遺伝的多様性が得られ、多様な環境への適応度が高くなったのであろう。そのうちに、機能的に数多くの繁殖子を作って自分の遺伝子を広く提供する個体と、いっぽうで繫殖子を少なくしながらも繫殖子の細胞に遺伝子だけでなく栄養を蓄え、合体したDNAが順調に育つような工夫を具えた繫殖子を提供しようとする個体も現れ、こうして雄と雌の性分化が始まった。雄の繁殖子を精子、雌の繁殖子を卵と呼び、このふたつが合体することで新しい個体が作られ、生物としてこの世界にデビューすることになる。
私たちが異性を恋し愛するのも、DNAが自己を複製し増殖しようという働きの表われと言ってよいだろう。お互いにお互いを求め、遺伝子を提供し合って子を残し、その子を大切に育てる。子を愛し育てることも、言ってみればDNAが倍々ゲームで増え
ようとする、その働きの表われと言ってよい。私たち人間を含むすべての生物は、基本的にDNAに支配され操作されて生きているのである。こうした働きもすべて、液体の水を媒体として、液体の水が存在できる環境の下でだからこそ行われているのである。
だがこうしておびただしい種類の生物が地球上に存在すること。そのこと自体が宇宙から見れば、起こりえない偶然の結果と言ってよい。先述したように、燃えたぎる恒星太陽からの絶妙な距離が地球に液体の水の存在を可能にし、その水を媒体として複雑な物質の進化が起こり、その結果として自分自身を含む多種多様な生物に地球は〝覆われた〟のである。太陽からの、その絶妙な距離を「ハビタブル・ゾーン」と呼んで、生命が存在できる域としている。もし地球がもう少し太陽に近かったら、あるいは遠 かったら、液体の水は存在できず、したがって生命は発生しなかったであろうし、当然今の自分はここにいなかっただろう。
こうしてみると、地球は宇宙の中でもきわめて特殊な天体であり、稀有な存在と言わざるをえないのである。そうして、私たちがなんの不思議もなく営んでいる日常の生活、宇宙的にはこれこそまさに起こりえない奇蹟中の奇蹟と言ってよい。
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北風と太陽:太陽は神様だ
イソップ物語に「北風と太陽」という話がある。北風と太陽が、どちらが強いか力
比べをしようとして、通りかかった旅人のコートを脱がせようとした。先ず北風が、
旅人に向かって力いっぱい風を吹きつけたが、旅人はコートを脱ぐどころか、ますますしっかりとコートを体に押さえつけてしまい、結局脱がせることはできなかった。
今度は太陽の番である。太陽は旅人に向かって、ちょっとばかり暖かさを送った。すると旅人は、嬉しそうに太陽を見上げ、来ていたコートを脱いでしまった。明らかに太陽の勝ちである。
この話を持ち出すまでもなく、私たち地球に生きているすべての生き物は太陽に養ってもらっていると言ってよい。確かに地球の生物は太古の昔、太陽とは関係なく深海の熱噴水鉱床付近で発生した。その生物は、いわゆる従属栄養型の生物で、地熱で合成されていた有機物質を食料として生きていた。だが、もしこの状態がその後もずっと続いていたら、生物は既存の有機物を食い尽くして、やがては絶滅していただろう。すると当然、今の私たちは存在しなかったことになる。
ところが今から三十五億年ほど前、地球に画期的な技術が出現した。原始的なバクテリアの一部が、地球にありふれた水と二酸化炭素を、太陽の光エネルギーを使って結びつける革新的な技術を編み出したのである。光合成の始まりである。そのためには、まず葉緑素がなければならなかっただろうが、おそらく元素どうしのランダムな離合集散の結果、偶然にも葉緑素が形成され、その結果、葉緑素が太陽エネルギーを使って、水と二酸化炭素とい う無機物質を結び付けて有機化合物を作るという、はなれ技がここで確立されたのである。
光合成を実際に行った生物は、葉緑素により体が緑色に染まった〝植物〟という新しい生き物だった。その結果、地球では糖という有機物質が瞬時にしてかつ大量に生産されることになった。糖の中には、光合成の過程を通して太陽のエネルギーが詰め込まれている。こうして作られた糖は、それを作った生物、すなわち緑色の植物だけでなく、捕食という関係を通して、すべての生物に分配供給されることになり、生物は細胞の中で、この糖を再び水と二酸化炭素に分解することで、そこに詰め込まれている太陽エネルギーを開放し、それを生活のエネルギーとして使っているのである。このように、地球の生物は生きるエネルギーを太陽からもらっている。動物はもちろん光合成をおこなわないが、植物を餌とすることで、さらには食物連鎖の関係を通じて植物を通じて得た太陽エネルギーを使っているのである。
私たち人間も、ものを食べることによって生きるエネルギーを得ているが、このエネルギーも、もとをただせば植物によって固定された太陽からのエネルギーである。こうして地球上の全生物は太陽によって生かされている。太陽こそ、私たちを生かしてくれている神様なのである。
腐った林檎
宇宙から地球を眺めたら、地球はまさに腐った林檎のようなものではないのだろうか。林檎を放っておくと、ふつうはカビが生える。はじめは小さな灰色の点のようなものが現れるが、次第にその点が広がって、ついには大きな斑状のカビの塊になる。
宇宙から地球を見ると、地球はまさにそのように見えるのではないだろうか。海洋はともかく、陸域では、本来一面の緑色の大地の広がりの中に、あるとき灰色あるいは茶褐色の小さな点が現れ、それが時間とともに次第に大きくなり、ついには灰白色の斑状の広がりが広く地表面を被うようになる。地球表面には、まさに腐った林檎に現れた腐斑のようなパターンが時間とともに広がり、さらにそれを精査すると、その灰色の広がりは、さまざまな高さの突起物がブツブツと一面に集まっており、その間には筋状の線が縦横に走っている。
かっては一面の緑だった地球陸域の表面には、いつのまにかそんな灰白色の斑紋が広がり、それは月日とともに拡大しているようだ。たぶん、そこにはある種の生き物が集まっていて、緑の大地の表面を灰色あるいは茶褐色のブツブツに変えてしまっているのではないだろうか。地球表面をそんなブツブツの集合体に変えてしまった生き物とは、いったい何なのだろう。
林檎を腐らせているのはバクテリアだけど、地球という星を腐らせているのはヒトという生き物だ。ヒトという生き物が大繁殖して地球本来の表面を破壊し、それまでには見られなかった構造物を作り、それが大群落となって地球を腐った惑星にしているのだ。
生き物
生き物とは、リレー走者のようなものではないだろうか。生命の灯というバトンを、前の走者から受け継いで次の走者に引き渡す。それが生き物の使命だ。動物であれ、植物であれ、微生物であれ、すべて生き物はリレー走者のような役割を宿命的に背負っているのであろう。リレー走者が、与えられた区間を必死に走るように、生き物も自分の一生を必死に生きている。辛いこと、苦しいこと、あるいは嬉しいこと、悲しいこと、まさに悲喜こもごもの思いで区間を走り、一生を完遂する。
生命の矛盾
地球上に生きているいかなる生物も、その出自を選ぶことはできない。誰も好んで極貧の家庭に、あるいは王侯貴族の尊子として生まれてきたわけではない。気がついたとき、そこに自分がいただけのことに過ぎない。これは、私たち人間から微生物に到るまで、すべて生物に共通して言えることである。ネズミは好んでネズミに生まれて来たわけでもないし、スズメも選んでスズメに生まれて来たわけではない。植物も同様である。親の生殖器官内で、精子と卵が偶然受精したときに、好むと好まざるとに関わらず、そこで自分が成立し、やがて生まれてくる。これこそすべての生物に課せられた避けようもない宿命といえよう。
幸せな臨終
臨死体験を経験した人の記憶によると、臨死状態で人はきわめて穏やかで幸せな心地になるとか。まるで光に満ちたのどかな花園を歩いてでもいるような、そのままそこに自分を投げ出したくなるような気持になるという。
実際、脳波を計測してみると、ふつう人は心臓が停止しても脳波だけは、しばらく続けて
計測できるという。この時点で人は、死に臨んで和やかな気分を経験しているのだろう。
すると死とは、その直前までは苦しいものかもしれないが、最後の瞬間、私たちは静かに
平和な気分で死を迎えられるのではないだろうか。
人は余生期の長い動物だ
多くの動物の一生は、成長期と繁殖期の二つの段階に分けられる。成長期とは、生まれて餌を食べながら、体内では盛んに細胞が増殖し、さまざまな組織や器官が作られ、次第に体が大きくなり成体に近づいていく段階である。特に体の機能として、その動物が生殖可能に達する
までの段階を成長期という。それに対し、体内で成熟した精子や卵を、交尾という行動を通して合体させ受精卵を作り、じっさいに子供を作れる状態にある段階を繁殖期という。この二つを合わせたものが、動物の基本寿命である。
多くの野生動物は、成長期を経て繁殖期に達し、交尾をして子供を作ると動物としての役割を終わり、ここで一生を終える。ところが進化した哺乳動物の中には、その後なおしばらくは老いた状態で生きているものもあるが、この残りの段階を余生期と呼んでよいだろう。
進化の進んだ私たち人類はどうだろう。人類は、ほぼ十八歳前後で成長期を完了する。つまり成長期はほぼ二〇年といってよい。その後、子供を作れる期間、すなわち女性の出産可能な期間は四〇歳くらいまでだろう。すると繁殖期が二〇年余。合わせて四〇年程度が人類の基本寿命といってよい。
ところが人類の平均寿命は、世界的に見て八〇歳ほどである。日本人の場合、統計的に見て女性が八六歳、男性が八〇歳、男女平均すると八四歳となっている。すると人類は、四〇歳で基本寿命を終えたのち、さらに四〇年の余生期を持っていることになる。これほど余生期の長い動物は、人類以外にはないのではないだろうか。
人類が基本寿命の倍近くの余生期を持っているにはわけがある。まず、他の動物と違って人類は高度な文明を発達させた。その中には、医学や薬学も含まれており、人が傷ついたり病にかかった時には、それを治す薬や医療技術を使って直ちに対処できる。病の原因となっている病原菌を殺したり、栄養を補給したり、患部を治療したり炎症を抑えたり、状況に応じてさまざまな形で対処し病を治すことで、野生動物では死亡する状態でも人は生き延びることが出来るのである。こうして余命期が長く保たれる。
それに、人は愛情深い動物で、周りにいる人の苦しみを見逃せない。できるだけ苦痛を取り除いてあげようと努力する。そのことが、文明の発達とあいまって、人の余生期を長くさせている一つの重要な理由であろう。
いまひとつの理由は、人は年齢を重ねれば重ねるほど、さまざまなことを経験し知識が豊かになる。こうした知識は、基本寿命を過ぎても消え失せるどころか、生きていればさらに知識や経験を積み重ね、それに基づいて余生期には人生経験の比較的少ない若齢世代よりも、より広い視野で適切な判断が出来ることになる。
そのため余生期の人は、人生経験に基づいて社会にいろいろと貢献ができ、むしろこうした余生期の人々からの示唆やアドバイス等は社会にとってきわめて有用なところがある。つまり、余生期とは言えその段階の人々は、その立場から社会に少なからず貢献し、役にたっているのである。 さらに余生期の人々、ことに女性は、自分の経験から孫やひ孫たち、すなわち子孫の養育も巧みで、そのことによる社会への貢献も大きなものであろう。
こうして人類は、余生期であっても、いろいろと社会に少なからぬ貢献ができ社会からも期待されている。だからこそ、そのことが余生期の生き甲斐ともなり、人類は基本寿命をはるかに越えた長い余生期を生きることができるのだろう。それも人類の大きな特徴と言ってよい。
私たちは歌劇「夕鶴」の〝与ひょう″か
歌劇「夕鶴」の中の与ひょうという男は、矢に射られて苦しんでいる鶴を、「なんの報いも求めないで矢を抜いて」あげる、もともと心やさしい純朴な男だった。そんな与ひょうのやさしさに惹かれて、矢を抜いてもらった鶴は、人間の女に姿を変え、与ひょうの家に入り込んで与ひょうと暮らすようになる。
あるとき、つうと呼ばれるようになったその女は、与ひょうのために自分の翅を抜いて「千羽織」と呼ばれる美しい布を織ってあげたところ、与ひょうはその美しい布を見てすごく喜んでいた。
ところが、その与ひょうは、いつのまにか運ず、惣どという俗世界の金儲け人にそそのかされて金の魔力に取りつかれ、金儲けのために、つうに千羽織を織ることを強要するようになる。
そんな与ひょうに愛想を尽かしたつうは、あるとき最後の「千羽織」を織って与ひょうに渡し、自分は再び鶴となって与ひょうの家を出、空へ舞い上がっていく。ところが、羽の大部分を抜いてしまったつうは、なめらかには飛べず、ふらつくように空へ飛び立っていった。
それを見つけた近所の子供たちは、「つるだ、つるだ、つるが飛んでる」と騒ぎ立てる。聞きつけた与ひょうも空を見上げる。確かにそこには一羽の鶴が、だんだんと高く、そして遠くの方へと飛んでいくのが見えた。だがその飛び方は明らかに、ふらふらとよろめくような飛び方だった。
与ひょうは思わず、「つうよー、つうよー」と叫ぶ。だがその飛び方を見て与ひょうは、「よたよたと飛んでいきよる」と、立ったままいつまでも悲しげに眼で追いかけていた。その最後のシーン、涙が止まらなかった。
資本主義制度の社会に生きる私たちも、いつのまにか金の力に支配され、金儲けに明け暮れ、本来の純心なやさしい気持ちを失ってしまっているのではないだろうか。あの歌劇は、そんな人間の宿命を描いた象徴的な作品といってよいだろう。だからこそ、いまさらのごとくに、あの歌劇に惹きつけられるのだろう。